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わが母の記 [テレビ・映画など]

井上靖の自伝的小説を映画化した作品「わが母の記」を見ました。

号泣することを期待して(覚悟して?)出かけたのですが、意外とそうでもなかったです。それは、感動しなかったからというわけではなく、身につまされる部分とかが多くて泣くに泣けなかったということです。

特に前半は、伊上洪作(井上靖)のいかにも昭和の父親像的な一国ぶりにムカついたり、旧家然とした家族たちの日常にいらついたりしながら見ていました。また、母の一挙手一投足は天然なのかボケなのか良く分からない様子に、思わず笑っちゃう部分もありましたが、認知症独特の人を悪気なく傷つける一言を平気で言うというか、嘘をついているつもりなく嘘を言うというか、そういう場面に「怒っても仕方ないんだけど、当事者はたまらないんだよなあ」と思いながら見ていました。

うちは、認知症ではないのですが、身体が動かなくなって来て、でも逆に頭だけがハッキリしているので始末が悪く、性格の悪さが輪をかけてひどくなり、本当に困り果てているところでもあるので、この映画もある意味ひとごとではなく、年をとるということは何とも言えないものがあるなあと思うわけです。

涙が出て来たのは、母が洪作が子どものころに書いた詩を暗唱した場面です。ここは、映画の中の洪作と同じく、どうにもこらえられないという感じでした。離れていても、いや離れているからこそ、母の子どもを思う気持ちは強いのだということです。自分が母になったから余計に分かることでもありますが、どんな状況にあっても、どんなことをされても、母は子どもを愛しているもんだと思います。(世の中にはそうでない事件が多いのが信じられないですが。)

ただ、この映画を通じて、1つ感じたことは、人の気持ちというのは(真実はどうであれ)相手がどう受け取ったかが全てであるということです。例え年月が経って、真実を知って気持ちが溶けたとしても、誤解していた間に育まれた人格であったり、人間関係であったり、そういったものは過去に遡って修正することは出来ないわけです。だから、「いつか分かってくれる時が来る」とか言って弁明しないのは、美談ではあるかもしれないけど、それによって人間が曲がってしまうかもしれない危険もあるのだから、やはり気持ちは正しく伝える必要があるのだと思います。

映画のチラシでは、「初めて知る、母の想い。50年の時を経てつながる、家族のラブストーリー」と書いてあります。これは映画としては感動的だけど、やはり50年という時間を無駄にしてしまったんではないかなと思ってしまいます。初めから母の想いが伝わっていたなら、もっともっと良い家族になれたかもしれないし、違った人間関係が生まれたんでしょう。

と、これは家族との気持ちを通わせるのが苦手な自分に対する戒めであります。
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